家族で近所である遠州灘の海岸へ行った時のこと。
浜辺は人気がまばらだった。
海を眺めながらどっしりと立つ風力発電はからっ風を受けてプロペラが回っっていた。
陽もくれて来たことだし子供も遊び疲れたから帰りまい、と空を東から西へじわりと眺めた。
西に目をやるとテントを併設した車が目に入った。
ほん20年程前は車がコンピュータと融合して半ロボット化していくなどとは思いもしなかった時代だった。せいぜい工場で使われているシーケンス制御が想像できれば御の字だった。
当時、研究の世界では人工知能(AI)推進派と否定派がバチバチやっており、中々開発が進展しない推進派は否定派によって部屋の片隅へ追いやられていた。否定派は人工知能ではなく、認知的な知性を持たない人工生命の研究を推していた。
それから数年後のこと。推進派が社会的に実用可能なレベルであるとAIを発表した。
それからのAI技術の発展はご存知のことであろう。
ここで、本来の人工知能とは、自分の存在意義と感情をも持った知能をさすもの。巷で浸透しつつある人工知能は感情や自己認知を持たない。よって自分が誰でなんなのかもわかっていない似ても似つかない存在である。
時は流れ、今やその車にもAIが搭載されているのかと想うとともに、もしその車が本当のAIで意識を持っていたらこの夕暮れ時をどんな風に思うだろう。
プロペラを眺めながら何を思うのだろう。
そんな様子を遠州灘はきっと、そっと見守っているに違いない。
そんな感じのインスピレーションで切り取った一枚。